今回私が身勝手ながらかなり無理して、PCR検査を受けてまで来たかったのが、トルコの友好都市串本町でした
忘れもしない、2002ワールドカップの際
宮城スタジアムで行われた日本代表とトルコの一戦
トルコのユニフォームを着てトルコの応援に向かう日本人の一団がありました
その一団の方々がTVの取材陣に対し言い放った話が、今も頭をよぎります
それが『今日私どもはトルコの応援に来ました。日本国民皆から袋叩きに遭ってでもトルコの応援をしなくてはならないのです。私は串本の人間ですから...。』
にっこりと笑みを残し、そのトルコのユニフォームを着た一団はスタジアムに入っていきました
「串本の人間だから・・・」何故?
それがネットで調べてみると判りましたが
今から131年前のエルトゥールル号遭難時における救出劇とそして36年前のイランイラク戦争時のテヘランからの救出劇、この二つの大きな出来事と通じ串本町が「トルコと日本の絆」となっていたからだったのです
詳しくはこちらの動画が判りやすく解説しています
後日小説『東の太陽、西の三日月』や映画『海難1890』を見て再確認、それはまさに語るにも涙、聞くにも涙の物語
トルコがあの台湾に負けずと日本贔屓なのが手に取るようにわかります
一度は串本町を訪れ、エルトゥールル号難波の際に亡くなった方を共なう慰霊碑に手を合わせて慰霊したい
その思いからこの日本で言うお盆の時期に決行した次第です
という事でやってきた和歌山県串本町樫野の「エルトゥールル通り」(愛称)
通りにはトルコ共和国と串本町の友好の証として建てられたトルコ記念館(コロナの影響で閉館していました)
トルコ建国の父といわれているムスタファ・ケマル・アタテュルク騎馬像がありますが、そのわけはトルコ共和国の初代大統領としてエルトゥールル号殉難将士の墓域の大改修と新しい慰霊碑の建立を決定し資金提供も行ったからなんだとか
そしてその奥に見えるのはエルトゥールル号遭難事故で発端となった樫野埼の灯台(当時のまま)
そんな串本町野崎の海岸は太平洋の荒波が押し寄せる岩場で別名船甲羅岩礁と呼ばれ、潮の流れが激しく古くから船乗り達に恐れられ遭難が多かった場所なんだとか
そそり立つ建築物が見て取れますが・・・
これが今回の旅の目的地の一つ
「トルコ軍艦遭難慰霊碑」
熊野灘沖を行き交う船舶を見守るかのように、樫野の丘にそびえ立っていました
ここで500名あまりの犠牲者に対し慰霊させてもらいます
エルトゥールル号で遭難したオスマン帝国軍人の弔魂碑(光瑞書)も一読
こんな感じでトルコと日本の絆を確認してまいりましたが
いや〜無理をして来て良かった
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