意外と見どころ満載「吉田松蔭歴史館」

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意外と見どころ満載だったのが今回のエントリー吉田松蔭歴史館
これまた松陰神社境内にありました
ここはロンドンのマダム・タッソー館を意識して昭和43年に開館した日本で最初の蝋人形歴史館だそうです
一回りしてきましたが、明治維新の中心人物となった吉田松陰先生の御生涯を、20の場面にわけ、70体以上のろう人形で再現した珍しい展示施設で結構リアルに再現されていて見応えがあったので紹介します(ちょっと長いです)
 

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松陰の生家、父は毛利藩の下級武士、杉百合之助の次男として生まれ、貧しかったようですが、父は非番の際には一家で田畑を耕したり、山に薪を採りに行って家計の助けとして、その勤労の間にも子供達に学問を授けたとのこと
 

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4歳で叔父(父・百合之助氏の弟)・吉田大助氏の養子となります
ところが翌年その吉田大助氏が若くして亡くなり、松陰が5歳で吉田家を兄梅太郎と共に近所に住んでいた叔父・玉木文之進が開いた松下村塾に通って厳格な教育を受けた
これはその兄と共に玉木文之進の教育を受ける場面
 

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まだ幼かった松陰は周囲の人々から英才教育を受け、10歳のときに藩校明倫館の兵学師範として教壇に上がり、松陰は秀才と噂されます
これは11歳のときには藩主・ 毛利敬親の御前で兵学講義をした場面
 

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藩主・ 毛利敬親はいたく感激して松陰の才能を認め、その後、遊学許可など数々の便宜を図りました、ということで全国遊歴の旅へ
北は青森、南は長崎まで5年足らずの間に歩いた距離は13,000km
ただし、約束があったため藩からの通行証明書を待ちきれず出発したため、帰ると脱藩の罪を問われ、士籍を削られてしまいます
 

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19歳の頃、唯一外国に向かって開いている長崎港、そして平戸に遊学し北九州各地を歴訪
特に平戸では葉山左内につき猛烈な勉強を開始する
平戸藩士・葉山左内は陽明学者だったこともあり、松陰は数多い左内の蔵書を借り受け、読破すると同時に筆写を始めた、そんな場面です
 

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江戸にて松代藩・佐久間象山(西洋兵学者)の新しい考えに強く心惹かれ、入門する
象山は海外に脱出して、その文明の知識を得よとの使命を松陰に課したのである
 

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そこで松陰は安政元年(1854)、同志の金子重之助とともに、下田(静岡県)に再来航したアメリカの軍艦に乗り込み、米国へ密航させてほしいと交渉しますが、失敗
二人は自首し、江戸の伝馬町獄に投じられました
ちなみにペリー遠征記では、この松陰の向学心に燃えた精神を賛美しています
 

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幕府は密航の罰として藩に幽閉
松陰は江戸の伝馬町獄から萩に送り返されて野山獄に入ります
ここで松陰は猛烈な勉学を開始するとともに、囚人教育を自発的に始めますが
これが後の松下村塾への基礎となっていきます
 

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安政2年(1855年)12月、野山獄を出て実家である杉家に幽閉の身となりますが
そこでも松陰は親族や近所の者たちに講義していました
そんな松陰のもとに、野山獄で行っていた獄中講義が評判となり、親類や近所の若者たちが松陰の教えを請いに集まってきため、杉家の古い小屋を改装して講義室にあてる事になります
そんな松下村塾の増改築の場面ですが、増改築の工事はほとんどが、門弟たちの手によるもの、この蝋人形はそんな場面が描かれています

やがて松陰は松下村塾を主宰することになります
 

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松下村塾には儒教的風潮は全くなく師弟共に同行し、共に学ぶというのがその基本的方針
 

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長州第一の人物と言われ、吉田松陰の松下村塾では高杉晋作と共に「双璧」と称された久坂玄瑞が18歳のときに松陰の妹の文との結婚を勧められ結婚する場面
しかし歴史上美男で知られる久坂玄瑞は、不美人の文を嫁にもらうべきかどうか悩んだ、というエピソードも残っているそうです
 

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松陰に影響を与えた人々として、2人のお坊さんの蝋人形(僧黙霖・月性)がありました
「宇都宮黙霖」は幕末の勤王僧で、吉田松陰と論争して、松陰に倒幕論への思想転換の機を与えた人物
「月性」は江戸末期の浄土真宗本願寺派の僧で
つねに国家の前途を憂い、海防の必要を論じたため、人は彼を海防僧と呼ばれていて「人間到る処青山有り」の漢詩でも有名な人物です
 

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27歳の頃、幕府が天皇の許可なしに日米修好通商条約を締結したことを知って激怒
尊王倒幕を企て、安政の大獄で江戸送りとなります
小田村伊之助や久坂玄瑞は、江戸に旅発つ前に何とか松陰を実家に帰らせたいと考え手を尽くし出立の前日に一晩だけ帰ることが許されます
送別の宴で、肖像画八枚に形身の賛を書いたそんな場面
 

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有名な「涙松の別れ」の場面
萩城下を出て、涙松に差し掛かった時、松陰は頼んで駕籠を下り、雨に煙る萩城下に別れを告げますが
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江戸評定所での取り調べの場面
幕府側には松陰を罰するような材料があったわけでなく、取り調べはあっさりと
終わってしまったが、しかし松陰自ら、「大原三位(公家)を長州藩に招く策」・
「老中間部襲撃策」の2つの計画を企てたことを告白し死刑の判決を下されます


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死罪の判決を受けた松陰は獄中で有名な「留魂録」を執筆、遺書とします
 

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最後に伊藤博文と山縣有朋の蝋人形
「伊藤博文」初代首相
「山縣有朋」3・9代首相 
 

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そのほか長州(山口県)が輩出した内閣総理大臣
「桂 太郎」11・13・15代首相(通算での総理大臣在職日数2886日は歴代1位)
「寺内 正毅」18代首相 
「田中 義一」26代首相
「岸 信介」56・57代首相
「佐藤 栄作」61・62・63代首相(連続での総理大臣在職日数2798日は歴代1位)
1974年にノーベル平和賞受賞

おっと96・97・98代首相である「安倍 晋三」さんの蝋人形が有りません
もしかすると再度首相になられる可能性が有り作られていないのでしょうか
 

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こんな感じで15分余り、吉田松蔭歴史館で松陰の29年の人生を顧みてきました
そろそろお腹がすいてきたので次は昼飯を食べに萩城下町へ

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この記事について

このページは、r-ohtaniが2021年12月12日 09:51に書いた記事です。

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