初代内閣総理大臣として有名な伊藤博文の像
萩焼でつくられたほぼ等身大の陶像は松陰神社から歩いて5分くらいの所に有りました
旧千円札の肖像として使われていたのでその顔を覚えている方は多いのではないでしょうか
その陶像の傍には伊藤博文別邸がありました
博文が晩年のとき(1907年)に東京大井村(現在の品川あたり)に建てた広大な邸宅(車寄せのある寄棟造りで中庭をはさんで向って右に西洋館、左に書院を配し、その奥に離れ座敷、台所、風呂、蔵を備えたもの)で、
ここ萩市の伊藤博文別邸には、そのうち従事の面影をよく残す、玄関、大広間、離れ座敷の3棟を移設し復元したそうです
ここからは常駐していたガイドさんから聞いたお話し
廊下の天井に貼ってあるのが、宮大工・伊藤万作の手による厚さ5cm、幅2m、長さ10m、
奈良の樹齢1000年の吉野杉の一枚板を使った切れ目がない大広間の鏡天井を移築したもの
東京品川にあった時はこの板は繋がっていて1枚板でしたが、トラックに積めないのでやむを得ず切断したという逸話が残っているそうです
離れ座敷にはこれまた宮大工伊藤満作によって造られた節天井と呼ばれる天井がありました
木材の節を見事に使っていますね
寝ていると気になる天井ですが、そんな狙いがあったのかもしれません
離れ座敷には伊藤博文自身が書いた掛け軸がありますが、なかなか達筆だったようです
ちなみに書家や詩人としても有名な存在だった伊藤博文の書や掛け軸はオークションや買取市場でも人気なのだとか
大広間にあるこの掛け軸も伊藤博文自身が書いたもの
この掛け軸には
「江山秀麗似仙郷依舊 林園尚帯香往事茫々人不 見古城秋色自荒凉
辛卯十月過指月城賦之 春畝公人博文」と書かれています
何だか高そうに感じます
パティオのような中庭には
明治天皇から下賜された石灯篭がありました
さて最近その明治天皇の件ですが、
実はある時点ですり替えられたのではと言った説が今またぶり返しています
発端となったのは昭和4年、元宮内大臣田中光顕という人物が晩年に「明治天皇に即位した睦仁を毒殺し、別人にすり替えた」と語ったのがそのはじまり
まぁ都市伝説のようにも感じますが・・・しかも証拠と言われているものも多数存在します
例えば本来なら明治天皇になるはずの、睦仁は内向的で右利きで字が下手、しかも馬に乗るのも嫌うほど運動音痴だったそうです
即位後の明治天皇は、スポーツマンで乗馬と相撲が好きで、左利きで字が上手かったという話
そしてこのころには写真が流行り始め、即位前と即位後の写真が比較されたりと、そのすり替え説の証拠となるものも多く存在するようです
すり替わったとされる大室寅之助が南朝の末裔だったから?というのも真実味を増しています
というのも南北朝時代に端を発した、南朝と北朝の対立構造もその背景にはあると言われているからです
前述の松田松陰が南朝派だったからとも言われたり、諸説あるようです
大広間には伊藤博文に関する資料やビデオ
そして生い立ちからハルピンでの暗殺をパネルで展示しています
そんな生涯を綴ったパネルで気になったのが1905年に伊藤博文が64歳になっとき
韓国統監府の初代統監となったときのパネル
ちなみに伊藤博文自身は朝鮮半島の植民地化には反対だったようです
その隣にはハルピンにて暗殺というパネルもありました
まぁ伊藤博文を語るうえで欠かせない話なんでしょうけど・・・
朝鮮の独立運動家で韓国で抗日英雄とされる安重根の仕業とされていますが、おそらくは違うのではと思われます
確かに安重根は伊藤めがけてピストルは撃ったようですが、実際には弾丸は伊藤に当たっておらず、別の位置から狙撃をした者の弾丸が伊藤の命を奪ったという説が有力です
というのもその時、安重根が所持していたピストルはクンフト社製のブローニング拳銃
けれど伊藤博文の体内で見つかった銃弾はフランス騎馬隊のカービン銃のもの
しかも伊藤に当たった銃弾は安重根の居た1階ではなく、2階から撃たれた弾道でないと説明できない銃創だったそうです
事件の捜査に政治的な配慮は無かったのでしょうか?何だか不思議な話です
ケネディ大統領を暗殺したオズワルドと同じ匂いがしますね
さて伊藤博文が暗殺された翌年、伊藤博文自身の思いとは裏腹に朝鮮は日本に併合されます
ということは真犯人はこの併合にかかわったと人物とみるのが妥当のように思えます
さて次に伺った、伊藤博文別邸に隣接する旧宅は木造萱葺き平屋建て、29坪の小さなもので典型的な下級武士の住宅です
残念ながら保存修理工事中のようで入館できませんでした
伊藤博文の旧宅と別邸、二つの建物は隣り合わせで建っていますが
江戸時代に下級武士である中間の身分の子どもであった博文が、明治時代に初代の総理大臣までに昇りつめた今太閤と呼ばれるほどの立身出世物語をこの2つの建物が物語っているようです
まぁ別邸の移設候補地にここを選んだ人の思慮が垣間見えますね
旧宅は明治元年(1868)博文が28歳で新政府に出仕するまでの14年間ここが生活の本拠となったそうで、ここから歩いて10分ほどの松下村塾に通っていたのですね
下の動画は
萩市観光課公式チャンネル「はぎたび-hagi tabi-」にあった「伊藤博文別邸」の動画です
くわしくはこちらで
なんだか今回のエントリーは炎上しそうな説がずいぶん紹介してしまいましたが
最近また「反薩長史観」の説が出始め、明治維新が見直され、様々な説が浮かび上がってきたようなのでそんな話も交えてみましたが、他意は有りません
最後に伊藤博文別邸2階からは眺めたのどかな田園風景で締めくくりますが
そろそろお腹が空いてきましたが、昼の予約時間までちょっと時間が有るので
松陰神社境内にある吉田松蔭歴史館を覗いていくことにします
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