さて居心地のよかった、湯布院らんぷの宿をチェックアウト
レンタカーで福岡空港を目指しますが、往路とは違い復路は立ち寄りたい場所があるので高速道路を使わず下道を進みます
そんな帰路の立ち寄りたい場所、甘木朝倉で見かけた看板がこれ
朝倉市健康福祉館「卑弥呼ロマンの湯」
えっ、なぜ甘木朝倉で卑弥呼なのでしょうか?
そのわけは・・・・
甘木鉄道の終点甘木駅の改札を出た正面に建つ「日本発祥の地 卑弥呼の里 あまぎ」と刻まれた石碑とその説明書きに書かれていました
石碑の説明書きにはここ甘木朝倉こそが邪馬台国があった場所であり
しかもあの魏志倭人伝に残る卑弥呼こそ、高天原を統べる主宰神で、皇祖神とされる「天照大神」であると仮説を立てられています
『邪馬台国論争は、古くは江戸時代からあるが、産能大教授安本美典先生他多くの学者は、高天原は邪馬台国で、それは甘木朝倉地方であり、邪馬台国の女王卑弥呼は天照大神であるとしている。この地方は、いたる所に貴重な遺跡が発見され「遺跡の宝庫」といわれている。特に福田台地とその周辺は国指定史跡小田茶臼塚古墳や、平成4年12月に発掘された平塚川添遺跡は邪馬台国時代の多重の環濠をもつ集落として、又、その当時の「クニ」の様子がうかがえると注目され、平成5年11月19日に国指定史跡となった。これらの遺跡からの出土品の数々は甘木歴史資料館に展示されており、古代の中国大陸や朝鮮半島との文化交流や、我が国における原始的国家形成の跡を無言のうちに象徴している。日本古代史研究者の中で注目を集めている邪馬台国東遷説は、大和朝廷の前身が九州にあった邪馬台国であろうとするものである。
甘木地方には三笠山・平群・三輪雲堤など、大和地方と共通の地名が、よく似た盆地状の地形の中に同じ位置関係で残されていることから、ここが大和の故地であると考えるのである。甘木朝倉地方には卑弥呼や神功皇后にかかわる伝承が数多く残されている。斉明天皇が朝倉に宮を置いたことも併せて、注目すべきことである。また、この地域を流れる安川(甘木川)は、高天原の川といわれる「天の安川」とも考えられており、その清流は今なお往古の「ロマン」をとどめている。
この地の豊かな歴史的遺産を顧み、「夢とロマンの邪馬台国」のシンボルとして、ここに「卑弥呼の里、あまぎ・あさくら」の碑を建立する。
寄贈
甘木商工会議所青年部』
ちょっと長くはなりますが、その「卑弥呼の里 あまぎ・あさくら」の根拠となるのは
長い年月を経てその昔、甘木朝倉周辺にいた人々が大和地方に移住し昔棲んでいた愛着のある地名を付けたからこそ、その地名が一致しているという仮説は神武天皇の東遷に合わせるかのような民族の移動があり、大和朝廷となった
そう大和朝廷の元となったのが邪馬台国であり
その邪馬台国こそがここに有ったのだというこの仮説
卑弥呼の墓がこれだといった話はマスコミ受けはしますが、実際には1700年も前の遺跡がそのまま残っていることはそうそうありません
それよりはこの地名の合致のほうが、形に残らない遺跡として、この仮説の信ぴょう性につながるように思えます
そういった安本美典氏の仮説がこれ
『邪馬台国は今の福岡県甘木市・朝倉郡地方にあった。この地方は北九州の中でも考古学上遺跡遺物の豊富な所であり、九州大学考古学の教授であった鏡山猛氏も「朝倉は筑紫の宝庫」である、と述べている。又、甘木・朝倉地方の地名は、奈良盆地の地名と一致しており、名前だけでなくその方位まで驚くほど一致している。またこの地方には、記紀の神話に出現する固有名詞と同じ地名が多く残っている。天の安の河(安川)、高木の神(高木)、奈良原(楢原)、美奈誼(三奈木)等。これは、この地方の勢力が大和へ東遷し、やがて大和朝廷を樹立した事を示している。そのため、この地方の地名と大和の地名が一致しているのである。(安本美典)』
そして邪馬台国論争の最重要となる比定地のひとつここ甘木朝倉の遺跡「平塚川添遺跡」があります
平成4年12月に発掘された平塚川添遺跡は邪馬台国時代の多重の環濠をもつ集落として、又、その当時の「クニ」の様子がうかがえると注目され、平成5年11月19日に国指定史跡となりました
もしも魏志倭人伝に記される国が、あるとしたらそれは
平塚川添遺跡のような強固な防護施設を有しているうえ
たくさんの人が住み、農業生産高が高くなければなりません
水耕栽培などの農耕に適した肥沃な大地、筑紫平野(加え熊本平野)がそれにあたり
しかも弥生時代末期の鉄・銅・絹・装飾品などの、多彩な出土品もこの地域から多く発見されていることから
ここ甘木朝倉は邪馬台国の最有力候補と思えるのです
ということで1700年の昔、ここに魏志倭人伝で書かれた邪馬台国があったのだと思いをはせつつ甘木朝倉に立ち寄ることが出来ました
※長文しかも参照文が多く失礼いたしました
コメントする