祇園宮川町で出会った祇園の象徴「舞妓さん」
京都最終日である3日目はアソビーユというツアー会社が催行する『あなたの知らない昼の花街!祇園のひる遊び』といったガイドツアーに参加しました
そのツアーの内容をホームページから抜粋すると
『「夜の町」というイメージが強い祇園。ですが、昼間の祇園にもたくさんの魅力があるんです!
専門のガイドが、祇園の表から裏まで歴史から文化までお話いたします。隠れた名店でお買い物や試食を楽しめば、新しい祇園の魅力に気づけるはず。ブラブラと路地裏を歩く感覚でお楽しみください。』と謳われていて興味があったのであらかじめ予約してありました
さて京都には花街といわれる場所は5つ
祇園甲部・宮川町・先斗町・上七軒・祇園東
この5つの花街を総称して「五花街」といいますが、今回のツアーはそのうち上七軒を除く
4つの花街をガイドさんに導かれ祇園花街の裏側を散策することに
ガイドさんと京阪本線祇園四条駅で待ち合わせましたが、どうやらツアー客は私どものみ、ラッキーなことにマンツーマンでのガイドとなり、まずは四条駅近くの宮川町から巡ります
歩いてほどなくガイドさんが立ち止まりました、どうやらこの古い木造家屋が何かの裏の祇園を象徴する建物のようです
現在は個人宅といったこの風情の家屋ですがよく見ると三階建てです、何故三階建てなのか?それはここ京都に限らず遊郭には妓楼と呼ばれることもあるように三階建てが多かったことに起因します
建物が三階建てなのは遊女が外に逃げられないよう三階に住ませていたからなんだそうです
ちょっと古い家屋にしか見えないこういった建物からも、その昔遊女が前借金に縛られ隔離されていた境遇が見ることが出来ますね
さて遊郭の話から始めてしまいましたが、今回のエントリーは花街(かがい)のお話でした
話を舞妓さんの話に戻しますが、ここ宮川町には数多くのお茶屋・置屋があります
そんな舞妓さんが所属する事務所兼住宅であるお茶屋・置屋の玄関には、所属する芸妓さんや舞妓さんの名前の表札がかかっていました
よく見るとここの舞妓さんの名前は皆さん「菊」の一文字が入っていますが、これは置屋の女将さんたるお母さんに由来するのだとか
玄関先にかかっている提灯の紋様は宮川町独特のもの
祇園五花街にはそれぞれの紋様の提灯があるのだとか
ちなみにここ宮川町の紋様は「みやがみわになり」
三つの輪が重なったデザインなんだそうです
そんな舞妓さんや芸子さんも贔屓にする「そば処 二葉」
ガイドさんもお勧めで、にしんそばの看板がかかっていますが、京都らしくうどんも美味しいのだとか
開店前ですが昼が近いこともあり、出汁の香りが店の外にまで解き放っていて
看板が無くてもここを通れば、あぁ二葉だとわかるくらいでした
次回は是非とも昼時ここに立ち寄りたいものです
ガイドさんに勧められ立ち寄った店もあります
それがこの「京菓子處 名月堂」
創業昭和25年の老舗の菓子屋でTVや雑誌で紹介されることも多いんだとか
名物はニッキ餅(1個100円)
帰りのバスの中で食べましたが、八ツ橋でも使われるニッキを活かしたシンプルなお餅
あのパナソニックの創業者松下幸之助も愛したお菓子なんだそうだ
けれどそのニッキ香りがすごい、バスの中で食べるにはちょっと失敗したかなと反省もしましたが、もちもちとした弾力のあるお餅はまさに京の名物なんだと感じさせました
そうそうこのお店ガイドさんも贔屓にしているためか、お店の方にニッキ餅を買ったときオマケにこの幸せを呼ぶ蛙『福蛙』(木村桜士堂)を頂きました
昔から蛙は「無事帰る、お金が帰る、若返る」と言われており、縁起物として親しまれているようで、お財布の中に入れてお守りとして持ち歩いて下さいとのことでした
ここ祇園にはこうした昔ながらの細い路地が毛細血管のように張り巡らされています
中には袋小路になっている小路もありますが、夏場は日陰となるうえ風も通り歩くには最適なんだとか
そんな小路の一つ「あじき路地」
若手工芸家たちがここに住みながら創作活動を行う「職住一体」を実践している場なのだとか
若手が集まっているのは、ここの大家である「おかあさん」こと熊倉弘子さんが私費を投じて、ものづくりに励む若手作家たちを応援する町家長屋をやっているからのようです
そうそう小路の名前の由来もその熊倉さんの旧姓の「安食」からきているのだとか
このあじき通り入り口には「大黒屋」なる銭湯がありますが、これまた舞妓さん芸子さんがよく利用するお風呂なんだとか
ちなみにその大黒屋の煙突を入れたこの風景は京都祇園の風情を表す写真によく使われるそうです
私もご相伴にあずかりパチリと一枚
少しばかり大きな通り(といっても道幅は5mくらい)には、折り畳み式のテーブルのある住宅があります
昔はここに商品を置きなにかしょうばいをしていたようですね
窓の格子が多いのは泥棒除けというよりは日よけ?
着物か何かを扱っていたのかもしれません
こんな細い道路にも関わらず鉄筋造りの建物が建築中でした
もとは町家だった様で奥に長い土地
行った全体、重機をここにどうやってもって来るのか
建築資材をどうやって運ぶのか、こういった場所で建物を建てるのはかなり大変そうです
さてこの建築中の建物を見てガイドさんが珍しいと言っていましたが、それはずいぶん地面を掘っているから
というのもここ京都では建築物の基礎はあまり深くは掘らないそうです
わけは千年の都だけあって深く掘ると何かかにか出てくるからなんだとか
何か遺物が見つかると2年は手が付けらくなるのがその理由のようです
さて話が長くなってきたので、その2に続きます
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