伊江島で沖縄戦を識る「公益質屋跡」

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いまからちょうど78年前となる1945年4月
米軍は日本本土爆撃のための航空基地確保を目的に「東洋一」と誇る伊江島飛行場がある伊江島に上陸しました
上陸前には第5艦隊の戦艦2隻、巡洋艦2隻、駆逐艦7隻から伊江島めがけて猛烈な艦砲射撃が行われるとともに、航空機による爆撃が行われ、数のナパーム弾が海岸やその後方に落とされました
米軍の上陸後、日本軍も伊江島全域で6日間に及ぶ白兵戦・肉弾戦法で抵抗します
夜闇に乗じ箱型爆雷を背負い敵陣地へ侵入し、爆雷もろとも体当たりする陸上特攻が繰り返されたりと悲惨な戦闘が行われました
 


 

いわゆる、「沖縄戦の縮図」と言われている伊江島戦
伊江島の戦闘による日本側の死者は、軍人約2,000名、村民約1,500名
一家全滅家族が90戸という惨状でした
村内の建物のほとんどが戦闘により破壊され、廃墟と化しました
そんな家ひとつ残らないような苛烈な戦闘が繰り広げられた伊江島にあって
唯一残った「公益質屋」を戦争の恐ろしさを後世に伝える存在として村の史跡に指定
公開しているとのことでしたので伺ってきました
 

yomitanson82.JPG
 

公益質屋は、1929年に政府の融資を受けて設立された村営の金融機関
当時、世界大恐慌期で村財政や村民の生活も苦しかった時代であったため、高利貸の暴利に泣く貧民を救うために作られた福祉施設だったそうです


yomitanson83.JPG
 
 
鉄筋コンクリートで作られていたため、かろうじて原形をとどめていたという建物ですが
まさに崩壊寸前、2階の床もこんな大きな穴が開いていました

 

yomitanson84.JPG


建物は穴だらけということもあり崩壊せぬよう補強されていました
戦争の悲惨さを後世に伝えるため残されたとのことですが
悲惨な歴史を現代に残す唯一の建物「公益質屋跡」を私もこの目に焼き付けてきました


yomitanson85.JPG

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このページは、r-ohtaniが2023年4月21日 06:19に書いた記事です。

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