舞鶴に来るのなら、わたがどうしても訪れたかったのが舞鶴引揚記念館でした
実は私の叔母は満州からの引揚者
年上の従兄弟も満州生まれ、引揚事には大変苦労して日本にたどり着いたのだとか
戦後660万人と言われる引揚者でしたが、舞鶴の他に引き揚げ者を受け入れた港は数々あり全国に10ヶ所、函館港もその一つです
なぜ舞鶴にだけ、こうした記念館があるのか、訪れて始めてわかりました
それはここがナホトカから近く、シベリア抑留者からの帰還を13年ものあいだ待ち続けた最後の引き揚げ港だったからにほかありませんでした
舞鶴引揚記念館はそうした引き揚げに関する資料を保管・展示する施設
第二世界大戦後のソ連(現ロシア)のシベリア抑留された約60万人の抑留生活と苦難に満ちた引揚の歴史を物語る施設として昭和63年に開館
「ユネスコ世界記憶遺産」に登録された570点を含む、1000点以上もの貴重な資料を展示
この記念館のためにに寄贈された品々も多くあったようです
まずは「臨時召集令状(赤紙・白紙・青紙)」
「千人針」
虎の図柄が描かれていますが、これは「千里を走り、帰って来る強い動物」にちなんだものだそうです
「戦陣訓」
戦場へ向かう兵士の心得
「軍隊手帳」
軍隊に入隊すると支給された手帳、兵歴や叙勲、階級から衣装のサイズが書かれているとのこと
「水筒」
引き上げの道中、命をつなぐ大切なものと説明書きに有りました
「フライパン」
新京(現在の長春)かた引き揚げてきたときに持ち帰ったもの
「鍋」
引き揚げる途中で煮炊きをした鍋
「飯盒」
寄贈者の父・篠原一男氏が戦中から抑留まで使用していた飯盒
やけどしないように取っ手に針金が巻かれています
この工夫、今でも使えそうですね
「飯盒・水筒」
寄贈者の祖父・八反田政男氏が抑留中に使用していた飯盒と水筒
八反田氏は終戦後にスバツカ、エラブカなどの収容所に抑留され、昭和22年11月に舞鶴に引き揚げたとあります
「捕虜日記」
昭和22年(1947)、シベリアから帰還した直後に記したもので
ソ連軍に投降した多くの日本兵や一部の民間人は、「トウキョウダモイ」(東京へ返してやる)と言われましたが、実際には日本へ送還されることなく、シベリアをはじめとするソ連領地内へ強制連行されました
その数はおよそ60万人といわれ、遠くはウクライナやジョージア(グルジア)、ウズベキスタンやカザフスタンなどの中央アジアまで連行され、意に反する強制収容所(ラーゲリ)での生活を余儀なくされました
そんな話が記されていますが、この日記はユネスコ世界遺産に登録されています
「岸壁の母」
出征兵士となった一人息子の帰国を信じ、引き揚げ船の入港に合わせて何度も舞鶴に通い、「岸壁の母」の歌のモデルとなった端野(はしの)いせさんの資料
映画にもなったお話です
「木製看板」
舞鶴地方復員部と遺骨安置所
「ポスター」
入港前夜引揚者の為に帰国大演芸会を催した際に使用したもの
「シベリアからやって来た犬クロ」
日本人抑留者たちが飼っていた雌犬「クロ」ですが
シベリアからの最後の引き揚げ船「興安丸」が1956年12月に出港した
残されたクロは、凍った海上を走り、船を追いかけたが氷の割れ目で海に落ちたため、船員が縄ばしごを下ろして助け、そのまま舞鶴へ
その後は地元の人に引き取られ、子も産んだとそうです
ちなみにこのクロ
映画「ラーゲリより愛をこめて」にもしっかり登場します
「ラーゲリより愛をこめて」でも映像化された
シベリア抑留の様子もここで再現されていました
私が伺った1月には特別展示「映画『ラーゲリより愛を込めて』の世界」が開催されており
撮影に使用された衣装などが展示されていて
それとなく映画の宣伝もなされていました
ということで帰ってから「ラーゲリより愛をこめて(原題ラーゲリから来た遺書)を映画館で観たのは言うまでもありません
感想というか見ている最中、涙が止まりませんでした
ネタバレになるので少し遠慮して書かせていただくと
撮影に使われたのはほとんどが苗場、そして斜里だったようで
映画の内容からいってもロシアでの撮影は難しかったようです(撮影はロシアのウクライナ侵攻前だったのにも関わらずです)
重要な役割を果たす犬クロの話など、今回舞鶴引揚記念館で予習しておいたのが、映画を観るうえで良かったようです
あと岸壁の母もいつかDVDかなにかで見るつもりです
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