五箇山菅沼集落の「塩硝の館」は軍事バイオ工場の資料館?

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今回の旅で私がどうしても再訪したかったのが、五箇山の管沼集落の「塩硝の館」
加賀藩政時代の五箇山の一大産業であった塩硝(黒色火薬の原料)の製造を展示説明する資料館です
 

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戦国時代にポルトガル商人から伝来したことに始まった「火縄銃」でしたが、そこは日本のお家芸「魔改造」により伝来した火縄銃をもとに複製を行ない、さらに日本独自の改良を加えて「種子島銃」と呼ばれる火縄銃を作り上げることになります
そして「長篠の戦い」において、織田軍は3千挺もの火縄銃で武田軍を奔走するまでとなります
そう火縄銃が伝来した30年後には欧州よりも多くの火縄銃を保有する国になります
 

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そんなにたくさんの火縄銃を保有したものの
実は日本ではその火縄銃に使う火薬の材料、鉱石としての硝石の産出はないんです
当初は堺を中心に海外から硝石の輸入が行われていたようです
 

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その後、硝石を「国産化」する技術が広がります
写真の「全国の塩硝生産地」がそれにあたります
ここ五箇山や白川郷もその数少ない生産地に名を連ねております
塩硝製法は、鉄砲伝来(1543年)以来20数年で、すでに五箇山に伝えられて
五箇山のような人里離れた集落では江戸時代に火縄銃に必要不可欠な塩硝造りが行われていたそうです
何故それが五箇山や白川郷なのか?
それはここ五箇山の合掌造り集落は大家族制
つまり、大きな家に多くの家族が住んでいますので、そこから出る大量の糞尿で、火薬を製造したというわけです
バクテリアがアンモニアを分解すると、硝酸ができることを利用
 

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「塩硝の館」では
採取から、積み込み、灰汁塩硝煮詰め、上煮塩硝作り、出荷までの過程を人形コーナーで紹介されています
 

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五箇山民俗館でスタッフに「塩硝」の作り方をパネルで説明いただいた
『塩硝土図解(培養法)』では
まずは麻畠などの積み上げた土・蚕糞に、切り刻んだ干草(山草などの培物)を敷き詰め年3回ほど切り返し、4年ほどおくとのこと
 

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4~5年ほどして、土に成分が移った頃にその塩硝土を木灰で煮詰めて塩硝を抽出するのだそうです
 

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塩硝の材料にはヨモギ、麻、サク等が使われました
 

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写真は茅葺き屋根の住宅の囲炉裏のそばの床下に穴を掘ってヨモギなどの草木に、泌尿や養蚕も同時の行っていたため、蚕のフンを加えて4〜5年かけて培養する「塩硝床」の断面図ですが
硝酸菌がアンモニアを酸化させ亜硝酸にし、その亜硝酸をまた酸化させ硝酸にかえます
いちど固形化し硝酸カルシウムにしたあと、それを木灰で煮付めて硝酸カリウムにしたものが、ここで言うところの「塩硝」となります
そうここ五箇山を始めとした地域はまさにバイオ工場群だったんですね


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五箇山の塩硝は農民たちの永年の試行錯誤により、風土に合った技術を会得し、上質な塩硝造りができるようになり「加賀塩硝」と呼ばれ、加賀藩に重宝されました
江戸時代、最盛期の1865年頃、年間39トンもの塩硝が生産され、加賀藩に買い上げられたのだとか
当時、その質と量は、共に日本一の座にあったと言われています
ここ五箇山は山里深くに作られた火薬の原料を作る軍事バイオ工場だったというわけです
作られた「塩硝」は塩硝街道と呼ばれる加賀藩の陰道で、秘密裏に運ばれましたが
その道は幕府に提出する国絵図にも記載されなかったそうです
理由は軍事的に重要なもの(塩硝、つまり火薬の原料)を運ぶ道だったからです
この五箇山菅沼集落を流れる庄川に橋がなく、籠で渡していたのもそうした理由だったんですね
 

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ここに来るまでは五箇山のような採れる作物も少なく、養蚕だけで暮らしている割には
茅葺の合掌造りとは言え何だかあまりにも立派な建物の集落に思えましたが
なるほど軍事的な価値があり加賀藩からの支援があったからこそ、こうした集落の維持に大きく役立ったのだろうと推測できます
そしてこうした戦争に関わることは学校の教科書には載らないでしょうから、こうしたものはやはりその場に足を運ぶのが一番だと悟りました

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このページは、r-ohtaniが2022年3月 9日 06:03に書いた記事です。

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