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高知県立坂本龍馬記念館で真夏日のなか涼む

シェイクハンド龍馬像
これは高知県立坂本龍馬記念館前で我々を歓迎しているかのように
手を伸ばす坂本龍馬像です
このころ高知は毎日数名から20名ほどの感染者しか発表されてはいませんでしたが
いやだからこそ恐れていたそんな感じでした
 


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桂浜に次いでやってきたのが
「高知県立坂本龍馬記念館」
NHKの龍馬伝が放映されていたころは長崎も訪れるほど坂本龍馬マニアの私ですが
この坂本龍馬記念館を訪れたわけは、灼熱の桂浜を歩き
ちょっと建物の中で涼みたかったというのが本音でした
 

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とは言え見どころ満載の坂本龍馬記念館
展示物は幕末維新一色
まずは龍馬と同じ高知県出身の日本画家 公文菊僊氏の坂本龍馬肖像から

そしてあまりにも有名な龍馬肖像写真原版(ガラス湿版) もちろん複製です
先ほど見た桂浜の坂本龍馬像もこの写真が元となっているそうです
長崎は初期の写真家である上野彦馬のスタジオ
土佐の井上俊三が撮影したといわれる龍馬の写真原版(ガラス湿板)
その時代こんな特別なものを撮っているというのに、普段着(多少よれよれ感のある)で飾り気のない坂本龍馬のごくごく普通の写真が撮られていることが驚き以外の何物でもありません
 

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さて続いて同じく公文菊僊画
土佐勤王党の盟主 武市半平太
そして陸援隊 中岡慎太郎の掛け軸
 

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龍馬が江戸千葉道場へ出立する際
龍馬の父、坂本八平が渡した修行中の心得書き「修行中心得大意」
現代訳では『一、片時も忠孝を忘れず、修行第一の事。
 一、諸道具に心移り、銀銭ついやさざる事。
 一、色情にうつり、国家の大事を忘れ、心得違いあるまじき事。(色恋にうつつを抜かすな)』と書かれているとのこと
最後に八平は自らを「老父」と記していますが、この時の八平はすでに58歳だっそうです
この訓戒書を渡されたとき龍馬は19歳、老父の訓戒書を「守」と書いた紙に包んでお守りのように肌身離さず所持し、それから十四年後下宿近江屋で襲撃され死亡した際も所持していたといわれています
龍馬に取ってかけ外のない書状です
(もちろんこれは複製、本物は京都国立博物館にあります)
 

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坂本龍馬書簡「同盟裏書」(慶応2年2月5日) もちろんこれも複製
慶応2年1月21日、龍馬立会いのもとに薩長両藩の盟約が成立しました。慎重な木戸孝允は盟約六ケ条を書き綴り、龍馬に確認のための裏書を求めました。龍馬はその時、手に負傷していたため、2週間後の2月5日、朱で裏書をし、2月6日にお詫びと近況を伝える手紙を添えて、長州の木戸のもとへ届けました。(真物:宮内庁書陵部所蔵)
 

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龍馬のピストル スミス&ウェッソンⅡ型 32口径
幾度となく龍馬自身を救った逸話のあるものですが、これは高杉晋作から貰ったピストルと同型の実物です
実物は龍馬が持っていたピストルは寺田屋で伏見奉行所に襲われた時に捨ててきたため、現存していないのだとか
 

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「いろは丸事件始末記」
海援隊のいろは丸と紀州藩の明光丸が衝突した事件
ちなみに衝突時、追突相手である紀州藩の明光丸に龍馬自ら乗り込んだうえ、大胆にも船長室に入り「航海日誌」を取り上げたこともあり、これが証拠となり交渉の上、大勝利
紀州藩勘定奉行・茂田一次郎との会談で、83,526両という巨額を分捕った・・・
いやもといの賠償金として受け取ったその顛末が書かれています
交渉の過程で持ち出したのが「万国公法」
日本の法律よりも諸外国の法律を重んじたまさにグローバルな人物でした
 

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続いて「おりょうが習っていた楽器」
これは龍馬が長崎で買い求めた月琴なんだとか(複製なのはご存知の通り)
 

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京都 河原町通りにあった近江屋 井口新助 邸において殺害された事件
「近江屋事件」として知られる近江屋の模型
 

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そして龍馬が暗殺された近江屋の部屋も復元されています
 

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ご丁寧に龍馬と中岡慎太郎が斬殺された部屋にあった、屏風と掛軸
飛び散った血痕も再現されていました
 

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土佐藩の武士階級は大変厳しく
上士と下士があり、その違いがこのパネルで紹介されています
なぜこんなにも身分の違いがあったのか?いや身分を分けなければいけない理由があったのか?
それは元々この地を納めていた長宗我部氏は、豊臣勢である西軍側
関ケ原の合戦で敗れた西軍側の長宗我部氏は領地を没収され、その代わりに遠江(静岡西部)を治めていた山内一豊が土佐藩に派遣されます
長宗我部氏は土佐藩から去りましたが、その部下や民はその地に留まっていました
そんな彼らからすれば、新しく入ってきた山内一豊の一行を快く思うはずがありません
そうした反抗を抑えるために、山内一豊は、信頼のおける家臣を重要なポストにつけ、それ以外の家来は遠ざけて配置をしました
つまり、山内一豊の家来が上士となり、もともと土佐にいた長宗我部氏の家来が下士として振り分けられたのです

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さてその坂本龍馬、今のように日本国中に知られるような存在ではなく、実は明治の中期まで無名の存在でした
倒幕・維新に尽力した、志士の西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の3人のような英雄ではなかったというわけです
坂本龍馬の名を知らしめたのは明治16年に坂本龍馬を主人公にした新聞小説『汗血千里駒』(坂崎紫瀾著)
この伝記小説が流行したおかげで知られるようになったというのが本当のところのようです
そう坂本龍馬自体が土佐藩の下士であったので,脱藩するまでの記録は何も残されていず、記録があるのは,暗殺されるまでの 5 年間だけ
それが汗血千里駒に描かれていました

これに上書きしたのは司馬遼太郎の長編時代小説「竜馬がゆく」
筆まめだった龍馬が書いた手紙は 140 通(内、姉の乙女宛の手紙は 18 通残されている)
この書簡をもとに書かれたのが「竜馬がゆく」
そうこの時代小説はまごうことなきフィクション
ただその内容がフィクションと言うにはあまりにも重厚で、膨大な資料に基づき書かれたこともあり、明治の新聞小説で一部の知識人に知られるようになった程度だったものが
この司馬の小説「竜馬がゆく」で一躍一般人に知られるようにり時の人となったようだ
いまではこうして高知の英雄
いやもとい日本を代表する英雄「宝」の一人となっています
司馬遼太郎はすごかった、まさに「ペンは剣よりもつよし」ですね

そんな龍馬の3頭身像と写真を撮ったところで坂本龍馬記念館と別れを告げ
次の目的地高知城へ向かいます


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2020年12月28日 22:29に投稿されたエントリーのページです。

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